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彗星夢雑誌/古文書

幕末紀州の知識人 羽山維碩(大学)

風説留*1  『彗星夢雑誌』百十五冊記す

和歌山文化協会郷土研究部部長 小弓場弘文

 次にこうした多用な情報の入手の経路と大学の人脈等について見てみると、
一、医療行為を通じての情報入手
大学は医者であることから、日常接する患者やその家族から、些事な日常の地域の情報を入手している。大学にとって日常の医療活動そのものが情報収集の場になっている。
二、部下の情報収集
大学の医療活動は、定評のある彼の製薬販売活動と結びついていた。それは近隣諸村にとどまらず、はるか国境を越えるものとなっており、大和、南山城、摂津等に及んでおり、羽山家の売薬手代から各地の情報を得ている。
手代の見聞した情報そのものが情報源となっている。
三、大学は蘭方医であることから当然京、大阪の医者仲間からも情報を入手している。
四、大阪緒方塾からのルート
大学の親戚の医学生「沢井俊造」という人がいる。この人はペリー来航前、緒方塾で勉学していた。同塾は医者を養成するところで全国から医者を志す秀才が集って来ている。この塾生から聞いた全国各地の話を沢井は大学に送っている。又、これらの同輩の塾生は、卒業して江戸に出る又は帰藩して藩医となることにより、その藩の情報がよく入るので、同輩のよしみから沢井に送り、同人から大学に送られている。こうしたことから当時の緒方塾は一種の情報センターとなっており、これを利用している。
五、熊野詣での旅人からの情報入手
大学の居宅と診療所(約六百坪)は、旧熊野街道の交通の要所で、しかも熊野九十九王子の一つである「塩屋王子」(美人王子)の門前に位置していることから、当時も盛んであった熊野詣での各階層の旅人がここに足をとどめ、病人等の診察治療やお接待などを通じで、全国各地のさまざまな情報を居ながらにして入手することができたと想像される。
六、海上ルートからの情報入手
(1)大学の住んでいる北塩屋浦は、海に向かって広く開かれた地で、紀州太平洋海運の拠点の一つである。紀州海運は東は江戸、横浜、西は大阪、兵庫からさらには下関に至る分厚い近世海運の重要な幹線ルートであった。したがってこの海運に従事する地元の船頭、水主の人々は大学にとって最大の情報の提供者であった。
水夫が目撃しており、帰村したのをとらえ一晩とめて、じっくりと生の目撃したことを聞いている。
(2)又、安政二年(1855年)十月の風説留によると、伊勢に中国船の漂着があり、伊勢の漢文のできる医者が通訳として長崎まで護送した。この医者が帰国する途中を家にとどめて、じっくりと中国情報をはじめとする外国情報を聞いている。
(3)文久三年(一八六三年)長州藩が外国船に発砲したいわるゆ下関事件についてちょうど下関で泊まっていた紀州の船乗りが帰ってきたのでじっくりと話を聞いてこれを書き留めている。
(4)漂流民からの情報
江戸時代紀州は、船乗りと船待ちが多きところから漂流事件も多かったという。幕末の漂流事件で有名なのは、嘉永三年(1850年)の天寿丸漂流事件である。天寿丸が漂流して一部が当時ロシア領であったアラスカに漂着した漂流民が下田に送り返され、士分に取り立てられ、苗字帯刀を許されて、大学の居た小浦という所で外国船の航行を見張る遠見番所の見張番になっている。その直後、ロシア船が紀州加太浦に碇泊する事件があった。このとき紀州藩の人間とロシア人が会話するが、そのとき通訳に当たったのがこの漂流民の「江崎太郎兵衛」である。同人からロシアとの会話の内容を聞き詳しく書いている。 <戻る   4頁 次へ>


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