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彗星夢雑誌/古文書


幕末の政治・情報・文化の関係について

前国立歴史民俗博物館長 宮地正人氏のご協力を得、1988年11月5日 愛知大学記念会館での講演から製作しました。


あと一つ見落とすことのできないのが居留外人の情報です。幕末の時代は、一面では近世ではなくなっているわけです。いわば、世界資本主義が日本を外側から取り巻き、その中に徐々に入り始めている過渡期なのですから、情報の流れが江戸から陸路を通じて長崎に行くということではなく、逆に、横浜の蒸気船が長崎に入るほうが速いのです。そして、横浜の蒸気船のニュースが一番最初に入るのは、長崎の居留外人に入るのです。従って、居留外人の話を誰が最初に掴むかということが、情報としては大事になります。桜田門外の話なども、一番速く掴んだのは居留外人です。当時、長崎には、シーボルトと息子のアレキサンダーが来ていましたが、アレキサンダーなどは桜田門外の話を我々より速く知っていた、というふうに彼等の手紙の中では言われています。
 このように、情報が江戸時代的な枠組みではなくなり始めているのです。このことは、幕末の政治状況と情報の入手の問題から考えれば非常に大切なことです。
 では、これは長崎だけかというと、函館も同じ問題があります。幕末の開港場でもある横浜・長崎・函館というのは、そういう意味でも、大事なのです。生糸や茶が輸出されていただけではないのです。長崎における肥後藩の役割を、函館で演じていたのは南部藩です、南部藩は、18世紀の末ラックスマンが松前に来た以降、ご存じのように、津軽藩と共に蝦夷地経営の重任を負った大藩であり、蝦夷地経営のために、10万石から20万石に格上げされたような藩です。従いまして、函館には、南部屋敷が厳然として構えられていました。南部藩は函館に入港する船からの情報を、盛岡に至急便で送るのです。そして至急便で送った方が、江戸から盛岡に来る情報より速く、正確なのです。一例だけ申しますと、文久3年(1863)6月、鎖港攘夷は次の年ですが、奉勅攘夷で日本全土から外国人を追い払うという、大きな攘夷運動が起こる。一体、横浜でどう動くか、というのは、函館に居る南部藩の人間も非常に注意をしています。そうしますと、横浜から出た船のニュース、船が函館に入ったのを誰が最初に掴むか、これは南部藩だけでなく諸藩も非常に関心を持っている。6月6日付けの史料に、「入港ノ英商船船主カラ居留蘭人ガルトネル伝承仕候風説、左ノ通リ相咄候」というのがあります。ガルトネルがイギリスの船長から聞いた。その船長から最初に聞くのは、函館奉行所の元締定役大橋宥之助なのです。この大橋宥之助と南部藩がかなりのコネを持っています。そうすると、即日大橋宥之助から極密に情報をもらう。そして、もらった情報は直ぐ津軽海峡を越えて南部盛岡に入る。こういう形で、幕末期の情報システムができていた、ということを頭に置いて頂きたいのです。

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